Experience Prototypistのマルチリンガル子育て+プログラミングブログ

Design Thinking、語学(英語、中国語、韓国語)、日中マルチリンガル育児、littleBitsやRaspberry Pi, Arduinoを使ったExperience Prototypingネタ。

文学と語学をいかに切り離すか...いかに日本語、そして英語を学ぶべきか

日本の英語教育が駄目なのは、日本の国語教育...じゃなくて日本語教育が駄目なのだ。最近は大学の一年次に文章の書き方をちゃんと教える大学もあるらしいが、これを小学校からちゃんとやらねばいけないのだ。

小学校で文章を書くというと、それが絵日記だったり、読書感想文だったり、なにかのイベントの後の文章だったりするのだが、そこで求められているのは、かわいらしい子どもらしさだったり、(大人の目線では見えない)独自の表現だったりで、普通の文章を普通にわかりやすく書くという訓練がないのではないのだ。

最近の中国のニュースで、『衝撃的事実、5割の中国人が「標準語」できない』なんてのがあったが、裏を返すと、中国の小学生が国語の時間に習っているのは、まぎれもなく「道具としての中国語(普通話)」なのである。日本の様に、日本人だから(漢字の読み書きは別にすると)それなりにできるであろう(別の言い方をすれば一生懸命勉強してもそれほど効果のない)国語の授業をなんとなくやっているのとは違い、中国では、国民の意思疎通の道具としての普通話を、国語の時間にちゃんと勉強しているのだ。

日本で早期英語教育が叫ばれると、日本語もできないうちに英語なんかやっても、たいした効果はない(あるいはどっちつかずの中途半端な結果にしかならない)という意見が必ず出てくる。私もこの意見には賛成なのだが、だから英語教育を中学校から始めるべきだという結論には至らない。だからこそ、小学校から道具としての日本語をちゃんと勉強しなければならないのだ、という結論を導き出さねばならないのだ。その結果として、中学校から始めるべきなのか、小学校から始めるべきなのかは、他の教科とのバランスを考えて決定すればよい(ちなみに中国では早期英語教育をしてます)。ちなみに、小さい頃の方が耳が良いから...という意見は即、却下する(我々の目指しているのは道具としての英語なのだ。英米人の発音だけが聞き取れても、他の英語を非母語とする人たちの英語の発音も聞き取れなければ意味がない)。

じゃあ、どういう文章が書けるようになればよいのか、と言う点に関しては、次の本を挙げておこう。達意の文章ではなく、読んでいて(矛盾や論理の飛躍による)ストレスを感じることのない、普通の文章が書けるようになればよい。

梵我堂の〈本音で迫る小論文〉 (受験面白参考書)

梵我堂の〈本音で迫る小論文〉 (受験面白参考書)

そもそも、英語の好きな高校生が、ろくに英語でペーパーバックも読んだことがないくせに英文科を目指す構図が間違っている。英文科は英文学を勉強したい人がいけば良いところ。英語学科は英語学を勉強したい人がいけば良いところ。トラバってくれたはんばあぐさんの意見ではないが、大学の教科書が英語になれば、英語の好きな人が間違って英文科に入ることも減るかもしれない(他の好きなことを、英語を使って勉強すればよいのだ)。

日本文学の好きな高校生が、大学の国文学科に入って国語の先生になるのも、道具としての日本語が教えられないという点で問題だし、英語がたまたま得意だった高校生が、大学の英文科に入って英語の先生になるのも、問題だ。ただし、こちらの理由は、たまたま英語が得意だった高校生は自分が英語が得意な理由なり原因などが自覚的にわかっちゃいないので、英語が苦手な学生にどうすればいいのかを教えてあげられないからである。